お金のかからない仏教(その六)
「第一部 仏陀の教えの真髄」をさらに見直しして宗教の香りを少し取り除きました。
「第四章 無財七施」について身施の説明を簡単にして、私の解釈に具体的な話を追加しました。
「第九章 布施」の私の解釈に追記しました。
「第十章 四諦」の私の解釈に追記しました。
宗教の香りのする話を「第二部 第十七章 三法印」に移しました。
「第十九章 定を求めて」について具体策を考え直しました。
現実への具体的な処し方として「第二十五章 中道」についてを書き加えました。
その他言い回しのこまかい訂正です。
お金のかからない仏教
仏教は、二千四百年前に仏陀が説いた宗教です。ここでは、その教えをあらためて味いましょう。もちろん、お金もかかりませんし、入信も必要ありません。ただただその教えをお持ち帰りください。
第一部 仏陀の教えの真髄
仏教の長い歴史の中で仏陀である釈尊の教えは様々に解釈され変化して来ました。第一部では、そんな変化の歴史でもほとんど変わらないで伝えられたと思える教えの真髄として、ぜひ取り入れたい善行と、してはいけない悪事を取り上げ、そこに私の解釈を加えています。宗教色がほぼ無いので仏教徒でなくとも納得できると存じます。
第一章 はじめに
一、人それぞれに進む道は違ってよい
二、一人でも多くの人の幸福のためになることをすることが善
三、分かち合う喜びは二倍になり、分かち合う悲しみは半分になる
私の解釈
私の気に入っている仏陀の教えを三つここに揚げました。この教えに難しいことはありません。読んだそのまま理解できます。素直に実行されればよろしいかと存じます。
第二章 信心と功徳
一、八正道に励めば、欲から離れ、善を行うことができる
二、欲から離れ、善を行うと、何事にも長所を認め、喜びを見出せる
私の解釈
これは、仏陀の教えの何を信じて行えばいったいどうなるかについて、私なりにまとめたものです。仏陀の教えとして現在の日本に伝えられているものには、意味不明のお経と難しい熟語と「してはいけない」という禁止事項が多いです。本来の仏陀の教えは難解な理屈と禁止事項の塊だったのでしょうか。私はきっと単純な教えだったと想像しています。そこで現代風の言葉で説明をして、さらに「してはいけない」だけでなく「こうするといいよ」という視点を私の解釈に盛り込みたいと存じます。
第三章 八正道
八正道は善行の基本です。それぞれに簡単に私の解釈を書きました。
一、正見 = 物事の原因と結果を正しく知る
二、正思惟 = 喜び、楽しみ、感謝する
三、正語 = 優しい言葉で正直に話す
四、正業 = 人々の幸福のためになる職業に就く
五、正命 = 人に親切にし、よい寄付をする
六、正精進 = 高い目標を定め、根気よく努力する
七、正念 = 何事もはっきりと意識を集中して行い達成する
八、正定 = 常に心を落ち着かせて穏やかな心持ちでいる
私の解釈
正見では、「正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。」という説があります。しかし、「分かち合う喜びは二倍になり、分かち合う悲しみは半分になる」という教えや「喜無量心」と食い違いが出てきます。ですから「厭を生じ」とか「喜を離れ、貪を離る」を修行の主目的としてはいけないと私は解釈しています。それだけを目的とすると、いずれ現実世界を見ないごまかしや無関心を生み出すことになりそうです。物事の原因と結果を知るとは、仏教の用語で言えば、四諦、三法印を理解することです。これについては後の第二部で出てきます。
正思惟で「出離を思惟し無瞋を思惟し、無害を思惟すること」という深遠すぎて私には意味がよく判らないな説があります。これはおそらく後世の修行僧たちによる後付の理屈と私は推測しています。私の解釈では簡単に誰にでも判るように説明してあります。
正業と正語に十悪の禁止事項を書き記す解釈方法がありますが、私の解釈は逆で「こうするといいよ」を取り上げました。禁止事項だけを記しては、行うべき善が見えなくなるからです。おそらく八正道の目的は、善を行うことですから。
正命に書いた親切にし寄付をすることを、仏教の用語では布施といいます。布施には、無財七施、財施、法施があります。無財七施が親切、財施が寄付、法施が仏教を盛り立てることです。法施、財施はともかく無財七施は宗教を超えて必要なことと存じます。
正精進に書いた高い目標ですが、仏教として最高の目標は、仏陀、つまり悟った人、になるということです。ということで仏陀の心である四無量心が仏教徒の最高の目標とります。
正思惟 、正念、 正定は心つまり感情の持ち方や考え方で頭の中のことです。私はこれら三つを難しく考えすぎないことが大切と感じて、現代風に簡単に記入してみました。
このように八正道を平易に現代風に解釈することで、誰でも八正道を理解し実行に移せるようになります。これでこそ万人のための教えとなります。
第四章 無財七施
施は布施の略で寄付という意味です。無財とは財つまりお金がかからないという意味です。
お金のかからない善行の無財七施について簡単に私の解釈を付けました。
一、身施 = 困った人を見たら助けてあげる
二、心施 = 人々へ喜びと楽しみを与え、人々の苦しみを取り去る
三、眼施 = いつも優しい目つきをする
四、和顔施 = おだやかな笑顔を絶やさない
五、言施 = 暖かい思いやりの言葉をかける
六、牀座施 = 弱い人、尊敬するべき人に席をゆずる
七、房舎施 = 宿の無い人を我が家に泊めてあげる
私の解釈
人々へ喜びと楽しみを与えることを与楽、人々の苦しみを取り去ることを抜苦といいます。仏教は慈悲の宗教とも言われますが慈悲の慈とは与楽、悲とは抜苦です。
身施についての具体例は、小さな親切とか、無償のボランティア活動があります
身施と心施をあわせて、おもしろい冗談を言う、歌を歌う、楽器を演奏する、ダンスで踊るなどで人々へ喜びと楽しみを与えることもできます。
人々の苦しみを取り去る方法として、良さそうなことは、苦しんでいる人のお話をよく聞いてあげることです。そのときにこちらの意見はなるべく言わず、思いやりをもって聞いてあげることが大切といわれています。苦しんでいる人のほとんどは苦しみの原因も対処方法も既に考えていることが多いそうです。あなたは、まず苦しみについて聞きます。相手は、心が次第にほぐれて来れば次は苦しみの原因を話し、さらに対処方法について話して来るそうです。一つ聞く度にもっともであると優しく相槌を打ちましょう。もし相手から求められれたら、八正道や無財七施の考えにそって優しく大まかなアドバイスをしましょう。
眼施と和顔施を発展させれば、清潔にして好感をもたれる身なりにすること、家を掃除してお客様をもてなすことにもつながります。
言施では、マナーの行き届いた挨拶、元気な声が考えられます。とくに、子供や部下に対しては、褒め上手になるとよろしいかと存じます。
褒め方として良いといわれている方法は、よく努力したことを褒めることです。成果を褒めることより努力したことを褒めたほうが褒められた本人は自分を良くみてくれていたのだとあなたに感謝し次も努力するようになるそうです。成果だけを褒めると努力を忘れたり失敗を恐れる可能性も出てくるそうです。ですから、努力を褒めた後、相手に「あなたはそれが得意である」ということも付け加えてあげてください。そうすれば動作に自信がつき淀みなくできるようになり、萎縮することによるミスが減ります。
お手紙やメールの内容、ネットのブログなどでも言施の暖かい思いやりの言葉は大切ですね。書いた文字はいつまでも残ります。良い言葉はいつになっても良い思い出を思い起こさせてくれます。
ふと思いついたのですが、眼施、和顔施、言施の最高のお手本は、天皇陛下と皇后陛下です。皆さんもそう思いませんか。天皇陛下と皇后陛下をお手本とささせていただき、眼施、和顔施、言施を常に心がけたいですね。
弱い人、尊敬するべき人に席をゆずることは、電車で体の弱い人に席をゆずったり、宴会で偉い人に上座に座ってもらうことだけではありません。権力を持った人が若者や部下に権限を委譲することや、親が子供に無用な口出しをしないことなどが含まれています。
お金のかからない善行ですから誰でもすぐにできます。ですから、どんどんやりましょう。しかも、やり続けましょう。そして、あなたも仏陀に近づきましょう。
第五章 四無量心
八正道を達成した仏陀の良心を表す言葉が四無量心です。無量とは無限大の意味であり、四無量心とは無限の良心です。
一、慈無量心 = 人々に楽しみと喜びを与える
二、悲無量心 = 人々の苦しみに同情し、それを取り去る
三、喜無量心 = 人々の喜びをともに喜ぶ
四、捨無量心 = 人々に惜しみなく施す
私の解釈
仏陀つまり悟った人はまず人々に楽しみと喜びを施してくれます。楽しみと喜びを得たあなたはまず最初にきっと笑います。笑うこと、楽しむこと、喜ぶことは善です。仏陀は人々が苦しんでいれば、同情し、さらにそれを取り去ります。さらに仏陀自身が人々の喜びをとともに喜びます。つまり仏陀は喜ぶわけでそれも無限にです。決して無表情でもなく無愛想でもありません。ですから正見についての一説「正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。」の「喜を離れ」の部分は奇妙な解釈と私は存じます。欲とは執着心のことです。仏陀は欲から離れているため、人々に惜しみなく施してくれます。
八正道に励むことで四無量心つまり悟りに到達することになります。
私も仏陀に見習い、ここでは欲をはなれます、お金も取りませんし、入信も不要です、その教えについてただただ解釈をしてみることにします。
第六章 十悪
十悪とは、してはいけないことです。行為、言葉、心の区別も入れてあります。
一、殺生(悪行為)
二、邪淫(悪行為)
三、偸盗(悪行為)
四、嘘(妄語)
五、無駄口(妄語)
六、悪口(妄語)
七、二枚舌(妄語)
八、貪る(悪心)
九、怒る(悪心)
十、邪見(悪心)
私の解釈
十悪は八正道の裏です。ですから禁止事項となります。
「殺生」についてですが、これは程度問題です。人が人を殺すことは害が大きすぎるため禁止です。現代の法律も当然殺人は最も大きな罪として禁じています。戦争や死刑については、できる限り避けるように法律や社会を改良していくしかありません。では、動物や植物を殺したり食することはどうでしょうか、この場合、字句どおり厳格に解釈することではなく「一人でも多くの人の幸福のためになる」かどうかで判断することにしましょう。
「邪淫」について、一切の性行為を禁止しているものではないと私は解釈しています。邪淫とは、つまりは悪、他の人を苦しめる悪の性行為を禁止していると解釈してください。
「偸盗」は、泥棒のことです。
「貪る」は、際限なく飽きることなく欲しがることです。煩悩・欲に取り付かれた状態です。金品・権力・名誉・快楽を求めることは、ほどほどにしなければいけません。
「怒る」に、私は意地悪、苛めも含めています。
「邪見」とは、原因と結果を正しく見ない間違った考え方という意味です。たとえば仏陀の時代なら、なんでも悪霊のせいにする迷信です。そして犯罪者によく見られる言い訳、罪を罰せられたことを運が悪かったとすることも邪見です。また、何事にも後ろ向きになる考え方、悪へ吸い込まれていく暗い気持ちも邪見です。
第二部 仏陀の悟りの構造
第二部では、多くの仏教徒が仏陀の教えと認めていると思われる教義を取り上げ、そこに私の解釈を加えています。宗教の香りが出て来ます。
第七章 三学
三つの学び修めること、戒・定・慧とは
一、戒=戒律、罪(殺生、邪淫、偸盗、妄語、飲酒)を犯さない
二、定=常に心を落ち着かせて穏やかな心持ちでいる
三、慧=智慧つまり真理である四諦、三法印を知る
私の解釈
三学は八正道への入門編です。ですから三学は八正道の一部です。三学はお寺で修行を開始するときにまず習うことでしょう。
仏陀の教えには飲酒の戒、つまり禁酒があります。今の日本国で禁酒を守ることが難しい人は多いと思います。私も酒宴があれば酒を口にします。せめて節度ある飲酒で心の安定を損なわないようにしたいものですね。
仏教では真理のことを智慧と呼ぶようです。
第八章 六波羅蜜多
三学をさらに発展させると倍の六波羅蜜多になります。私の解釈を簡単に書きました。
一、持戒波羅蜜 = 三学の戒
二、禅定波羅蜜 = 三学の定
三、智慧波羅蜜 = 三学の慧
四、布施波羅蜜 = 布施をする
五、忍辱波羅蜜 = 侮辱にも心はじっと耐え忍ぶこと、
六、精進波羅蜜 = 仏陀に近づくよう根気よく努力すること
私の解釈
波羅蜜多は聞き慣れない言葉ですが意味は修行して悟りに到達することです。三学の学ぶだけでなく実践の項目が追加されています。
忍辱波羅蜜の根気があり、非難、中傷、侮辱や罵詈雑言にも心はじっと耐え忍ぶこと、逆は、怒る、喧嘩をする、取り乱し泣き喚く、愚痴をこぼす、言い訳をする、逃げる、正しい信念を諦めるなどです。
六波羅蜜多でもまだ八正道の一部です。六波羅蜜多はお寺でさらに修行を重ねるときに修めることですね。
第九章 布施
善行の基本である布施の種類が三つあります。布施とは寄付のことです。
一、無財施 = お金のかからない施し
二、財施 = 金銭・物質の施し
三、法施 = 仏法を説き広める施し
誠の布施とは、布施をした自分、布施したもの、布施した相手を忘れること。つまり、執着から離れること。
また最高の布施として、大善のために命を捧げることがあり、捨身行といいます。
私の解釈
お寺へのお布施だけが財施ではありませんね。私は、財施として助け合いの募金やバザーそして税金を含めて考えています。そうなると税金の行方が気になってきます。私の意見が反映された使い方がされるといいなと思いますが欲なのかも知れません。今は、民主主義の世の中、多数決で物事が決まります。つまり私の税金はできるだけ多くの人の役に立つよう多数決で使い道が決まります。民主主義の原理である多数決は、「一人でも多くの人の幸福のためになることをすることが善」の教えに適うのですね。一部の人の特権のためでなく正しく公平に民主主義が実施されるよう願うばかりです。
誠の布施とは、一切の見返りを求めないギブ・アンド・キブです。私はまだまだその境地に到達できそうもありませんが、いろいろ失敗して損をしたときは布施をした気分になろうかなと考えます。いずれにしろ誠の布施を最終目標として努力したいものです。
第十章 四諦
四つ(苦・集・滅・道) の真理つまり智慧について簡単に私の解釈です。
一、苦諦 = 人は苦しみを感じることがある
二、集諦 = 苦しみの原因は欲、つまり執着心である
三、滅諦 = 欲、つまり執着心から離れれば、苦しみが消滅する
四、道諦 = 執着から離れる方法は八正道を行うこと
私の解釈
仏陀が出家した動機として四門出遊の故事が伝えられています。この故事には、世の中の人、自分の家族そして自分が苦しみに悩まされていることについて解決したいと仏陀になる前の釈迦が願ったということが語られています。仏陀にとって、苦しみの起きる原因と苦しみを消滅する方法を見出すことが、出家の第一の目標でした。この目的は、四諦の発見で達成されたわけです。この史実を仏教では、釈迦が成道して仏陀となったと伝えています。
つまり四諦とは、人間の苦しみの原因と苦しみを取り除く方法です。わずか四項目しかないため、その理屈の流れはすんなりと納得できます。そして、苦しみの原因である執着から離れる方法が八正道であり、八正道とはつまり善行です。
仏教の四諦は、他の宗教との違いが際立つ視点です。もちろん他の宗教と四諦について正邪の言い争いをしてはいけません。
仏陀の物語では、仏陀が得た悟りについて世の中の人に語り伝えるべきかどうかを考えた、とあります。四諦は当時の考え方と大きく異なるため、仏陀は、人々が四諦の理解して実行することがが難しい、と感じたのでしょう。仏陀の物語には、梵天という古代インドのバラモン教(今のヒンドゥー教につながる)の神から人々に悟りを説くよう強く何度も頼まれたという梵天勧請の伝説があります。私の解釈は、仏陀自身が八正道を実施するしか悟りを継続する方法が無いというものです。悟りの状態を続けるとは八正道を実施し続けること。それはつまり仏陀にとって人々の幸福のためになる職業として悟りを説く教祖の立場に就くことであり、無財七施や四無量心を実践し行くことだったのです。
この私の解釈から次に推測されることは、四諦や八正道についてただ知るだけでは、悟りは一瞬で終わるということです。悟りの状態を続けるには、八正道を実践し続ける必要が出てきました。
仏教の一部では、「悟りを得た直後の仏陀が人々に悟りを説くかどうか迷った。その理由は悟りが難解だから。」という説がありますが、私は「難解である」の立場ではありません。悟りの理論的核心は、四諦と三法印です。多少難しいのは三法印に出てくる諸法無我と涅槃寂静の解釈ですがそれについて現代の言葉で後ほど簡単に解釈しておきました。たとえ、この四諦と三法印を理解できなくとも、八正道を実行すればそれて十分です。そのために第一部で八正道、無財七施、四無量心を現代の言葉で易しく説明してあります。
残る難しいこととは、八正道をできるだけ完全に実行することです。まず重要なことは、人それぞれに進む道は違ってよいので、皆が教祖や修行僧になる必要は無く、社会生活を営みながら八正道を実施すれば良い訳です。そして八正道の中にあるように「根気よく努力する」ことを続ければ、次第に八正道をうまく実施できるようにきっとなります。
もちろん私はまだ八正道を完全に実行できませんので、苦しみを完全に取り去ることがまだできていません。それでも、八正道にあるような良い事を一つすると気持ちがいいものですね。この良いことをすると気持ちがいいという感覚をこれからも大切にしたいものです。
第十一章 四苦八苦
苦の分類です、まず、四苦とは、生、老、病、死。
さらに、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦を加えて八苦となります。
五、愛別離苦 = 愛するものとの別離
六、怨憎会苦 = 怨み・憎しみ・敵意を感じること
七、求不得苦 = 求めるものを得られないこと
八、五蘊盛苦 = 生身の体であること
私の解釈
四苦は客観的に眼に見える苦しみ、生まれることが苦しみの始まりであるとしています。
八苦として追加された苦は心の中にあり他人から見えない苦しみです。五蘊については後で説明があります。
第十二章 煩悩の三惑
煩悩、つまり欲、執着心を三惑 の 貪・瞋・痴に分類
一、貪欲 = 貪りの心
二、瞋恚 = 怒りの心
三、愚痴 = 愚かな心
真の悪魔とは 人間の心の悪の面つまり煩悩のことである。
自らが愚かであることを知っていることほど賢いことは無い。
私の解釈
自分が何か悩んでいたり気分が優れないときは煩悩に取り付かれているはず。逆に悩んでいたり気分が優れないとき、あっ煩悩だと気が付くぐらいだと修行の成果も出てきたと思えるでしょうね。
年末の風物詩として十二月三十一日の大晦日にお寺の鐘が百八回鳴らされるのは、煩悩が百八個あるからといわれています。ここでは簡単のため、煩悩を大きく三つに分類しています。百八個も教えられても気分が悪いだけですからね。
第十三章 五蘊
五蘊 とは、肉体と精神の構造を分類したものです。
一、色 = 眼に見える肉体
二、受 = 感覚を受け入れる五器官(眼耳鼻舌膚)
三、想 = 記憶
四、行 = 意志
五、識 = 感情・意識
私の解釈
五蘊、次の六根、六境、六識は、仏陀の時代の科学知識を考えるとこれで十分だと思います。そして現代の私たち自身にとってもこの分類で十分修行に励むことができます。
第十四章 六根
六根とは、感覚器官を分類したものです。
一、眼根
二、耳根
三、鼻根
四、舌根
五、身根 = 皮膚や内臓のこと
六、意根 = 神経、心へ感覚を伝えるところ
第十五章 六境
六境とは、感覚器官が捉える対象の分類です。
一、色境 = 色彩、形状
二、声境 = 音声
三、香境 = 香り
四、味境 = 味
五、触境 = 手触り・温度、体内の動き痛み
六、法境 = 色境 から触境 を統合して心が感覚として感じるものすべて
第十六章 六識
六識 とは、感覚器官に対応した心の認識作用です。
眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識
第十七章 三法印
三法印とは、この世の成り立ちと生きる目的です。まず私の簡単な解釈つきです。
一、諸行無常 = すべてのものは変転する、生まれやがて滅び死ぬ
二、諸法無我 = 我つまり自分の心はその時その時で生成と消滅をする
三、涅槃寂静 = 生きる目的は、欲から離れ、善を行う悟りの状態を目指すこと
私の解釈
仏陀の生まれた二千四百年前、当時の交通力、通信力、科学力を空想してください。とても遅れていた時代です。私には、国に文章で書かれた法律があったかどうかも解りません。きっと今より迷信が蔓延っていたことは間違いなさそうです。
仏陀が大変に偉大な人物であったことはもちろんですが、そのような昔の時代に一人の人間として生まれ、二十九歳で出家してわずか六年の修行で得られる知識の量はたかが知れているはずです。まず仏陀は迷信を見極める必要があったはずです。その点を忘れずに教えを解釈をしたいと存じます。
仏陀は六年の修行中、いろいろな師につき知識を得たそうですが、知識をそのまま鵜呑みにせず、自らこの世をじっくり観察し確実と思える知識だけを取り出し、三法印がこの世の成り立ちと生きる目的として整理されたのだ、と私は想像しています。
諸行無常は、この現実世界をありのまま捉えたもので誰にでも理解できどなたからも異論はほとんどないと推測します。
諸法無我は、宗教により立場が異なるため議論が噴出します。また現代の科学でも我つまり心についての解明は物質科学に比べて遅れています。実はキリスト教を始めとするいくつかの大宗教により、良い心の持ち方がすでに提示されているためこの分野に科学が割り込む必要が少ないとも言えそうです。
これから私の解釈を述べますが、諸法無我については、仏陀の時代背景の理解がまず必要です。
仏陀の生きた頃には、我という変化しない主体、いわゆる不滅の霊魂でしょうか、これを想定する有我論がありました。諸法無我は有我論の否定と一般に解釈されます。有我論を持ち出すとどんどん難しくなっていき、有我論と無我論の双方の立場からの議論が果てしなく続きます。仏陀の真意はおそらく水掛け論になってしまう議論を止めることだったと想像します。
それで、諸法無我の私の解釈ですが、我とは自分であると解釈し、外界の環境があり、そこの中に肉体の私があり、心・精神は肉体の中にあると感じています。諸法無我とは、我がまったく無いと解釈することではなく、「外の環境・肉体・心の境界は曖昧であり、特に心は物質ではなくその時その時の環境に合わせて生じ消えていく単なる状態である」と私は解釈しています。
私は、我という肉体は今ここにあると感じますが、その境界はけっこう曖昧です。昨日食べた食事が今の自分の肉体の一部になっていますからね。呼吸、食事や排泄を通じて肉体と外界は切れ目なくつながり、境界が曖昧で相互に関係しています。
また我の中には心・精神がもちろんあるように私は感じます。現代医学により心は肉体の脳にあることが判明してます。その他の神経節にも心があるという学説や記憶は物質だという学説がありますが、以下説明ではあまり重要ではありませんからその学説に深入りしません。心には形がありませんから解剖しても心は見つかりません。つまり心は固定した物質ではありません。結局のところ心は脳の状態でしょう。それより状態である心と肉体である脳との境目が曖昧で相互に関係していることが重要です。どこまでが心・状態でどこからが肉体・物質なのか、肉体というロボットを操縦している心はどこにいるのか。その境界は曖昧です。
ところで、私達は食事をすると食物を消化してそれが血肉骨となりさらに糞尿汗を排泄します。私達は脈を打ち呼吸をしています。これらは意識せずともいつのまにか行われます。そして時が過ぎると心が空腹を感じます。このように生きるための欲求・心が自然とどこからか湧き上がります。このことから、心は実は肉体の奴隷なのかもしれないと思い至ります。ということで、我と考える心は不滅のものではなく外部の環境と肉体の時間変化により勝手に生じる単なる状態なのかもしれません。
例えば怪我をすると心は痛みを感じますが、眼でその傷を見るとさらに痛みを増すことがあります。実際はそんなには痛くないはずなのに、痛みを恐れると痛みが増します。そして、どんな傷もやがて痛まなくなります。痛みを感じているのは傷口なのか脳という物質なのか心なのか、、、。痛みを伝える神経や痛みの信号を媒介する物質は発見されていますが、痛みそのものは物質という実体ではありません。傷と痛みの関係を冷静に見ることで肉体の自分と精神の自分の差を認識できます。
人間の高尚な精神活動、たとえば言葉を操りすばらしい詩を作りたいたいとか、立派な科学理論を発見したいとか、これについてもその始まりとなるきっかけは、心と肉体と外界の関係のどこかに必ずあると私は思います。
これらが諸法無我の私の解釈です。
心は物質ではなくその時その時の環境に合わせて生じ消えていく状態であるという解釈から、心を良い状態に保つことができれば苦しみから逃れることができる可能性があると気が付きます。外界からの刺激に肉体が自動的に反応しますがその時心も動かされますこの心の動きを八正道から外れないよう制御することで苦しみから開放されるという訳です。
涅槃寂静とは、死んでしまうとか、じっと座って動かないとか、まったく何もしないということではありません、ただひたすら善を行う状態・四無量心と私は解釈しています。
第十八章 三帰依
三帰依とは、仏教徒が三宝(仏・法・僧)に帰依することです。
一、仏 = 仏陀つまり悟りに到達した者
二、法 = 仏陀の教え
三、僧 = 僧伽(修行に励む僧侶と在家の仏教徒)
仏陀は釈尊だけとしないのが大乗仏教です。大乗仏教は仏陀死後ずっと後に教義を発展させながら成立して教えです。
南無とは帰依するの意味です。南無大師遍照金剛は、遍照金剛の弘法大師に帰依する、南無阿弥陀仏は阿弥陀仏に帰依する、南無妙法蓮華経は妙法蓮華経に帰依するということです。
私の解釈
帰依は信仰するという意味です。僧は出家した僧だけでなく在家の模範的仏教徒も含まれるとして良いはずです。
仏陀を釈尊だけとしないことも良い意味に捉えることが大切です。悪い方向に捉えると仏教内部の宗派争いになります。
八正道について宗教臭さつまり個人崇拝や排他主義はありませんが、三帰依あたりから宗教臭さが少し顔を出しています。信徒が僧に帰依して布施をいただかないと仏教教団の生活が成り立ちませんから、いたし方ないことなのでしょう。
第三部 私の考察
ここ第三部からは、私の独自の項目を立て仏陀の教えをどのように生かすかについての考察です。
第十九章 定を求めて
定、心の安定について現代風に考察します。それは、
一、心が清い(悪を考えず善を考える)
二、心が柔らか(変化に対応できる)
三、非難中傷侮辱に耐え忍ぶことができる(正しい信念を貫くことができる)
でしょうか。では、心の安定を得る具体策は、
○、慌てずに優しい微笑みを顔に浮かべてから物事に対処すること
です。
心の安定を得やすくし、また持続させるには
○、人々を楽しませ励ますこと
○、人々の喜びを共に喜ぶこと
○、人々の恩と親切に感謝すること
○、すべての人にわけ隔てなく好意で接すること
○、進んで善を成し善を楽しむこと
○、言葉と行いを一致させること
○、愚痴を言わないで、自らを励ますこと
○、貪らず、節度を守ること
○、人々を悩まさず、席を譲ること
○、敬うべき人を敬うこと
○、仕えるべき人に仕えること
○、人々に深い慈悲の心で接すること
○、争いを好まず、協調を好むこと
○、正邪を論争せず、相手の立場を理解し認めること
○、他人の悪い言葉に迷わず、平静を保つこと
○、謗られても、恐れず、怯まないこと
○、他人の成功に嫉妬せず、褒め称えること
○、他人の悪行を激しく追求せず、むしろ長所を見出すこと
○、自分の行いと考えを省みて欠点を直し長所をさらに伸ばすこと
○、良い人が見つかるまで教えを友とし孤独を恐れないこと
○、善行による損失を恐れず、布施と考えること
○、善行による死を恐れず、捨身行と考えること
などが思いつきます。
第二十章 煩悩から逃れる
煩悩・欲から逃れる術を現代風に考察します。
一、正しい見方をする
今の感覚の快感または苦痛を貪らずに冷静に受け止める。
今起きている物事の原因と結果をわきまえる。
今起きている物事の善の部分を考える。
敵対してくる人々と言い争わず相手の立場を理解する。
二、欲を抑え鎮める
今感じる欲・煩悩から一歩離れてよく見直す。
煩悩は我という心の中にしかないと再認識する。
心を涅槃寂静・四無量心に据える。
三、物を用いるに享楽や吝嗇だけを追求しない
着物は暑さ寒さを防ぎ羞恥を包み、さらに周りを楽しませるもの。
食物は道を修め体を養うために取り、さらに周りを楽しませるもの。
いずれも己の自慢、見栄または吝嗇だけためではないと知る。
吝嗇とはケチのことです。
私は質素倹約だけでもいけないし華美贅沢だけでもいけないと考えています。
その時その場相手に応じて物の使い方は変わると考えます。
四、危険を避ける
行ってはいけない所に近づかない。
会ってはいけない人に会わない。
五、忍耐をする
ののしりや、謗りや無視に耐え忍ぶ、相手への怒りの感情は捨てる。
暑さ、寒さ、飢え、渇きはいずれ解決できると信じて耐え忍ぶ。
目標を達成するまで努力を続ける。
六、喜び感謝して善を行う
物事を実行するときにより多くの人々の幸福のためになる善行を選ぶ。
善行を喜び、楽しみながら行う。
人々の長所・役割を見出し相手に感謝する。
物質的な欠乏、劣悪な環境を解決するよう工夫をする。
第二十一章 怒らない
怒らないためにすることを現代風に考察します。
一、まず対象から一歩離れる
二、対象について、多角的に捉えなおす
三、対象の大きさ加減を知る
四、対象への怒りがつまらぬことと見切る
第二十二章 仏教の愛とキリスト教の愛
仏教とキリスト教では成立した年代・地域・文化が異なるため、仏教の愛とキリスト教の愛では、言葉の意味の範囲に大きく違いがあります。仏教は愛という言葉をもっぱら欲にからんだ狭い意味で使用しています。キリスト教は愛という言葉を博愛の意味で利用しています。キリスト教の愛は仏教の四無量心に対応すると考えてもよいかも知れません。どちらの宗教も人々をより良き方向に導くことを目的としております。教えの正邪を論争しても意味がありません。
第二十三章 神と仏教
仏教には神が出てきません。神について何も述べていないのです。ですから神を肯定も否定もしていません。神とはどのようなものであるかも説明していません。むしろ神を信仰する人にその信仰を捨てる必要は無いと言っていたと聞きました。私はこの部分の出典を失念していますが、、、。
仏陀はこの世の成り立ち(三法印・四諦)と生きる目標(四無量心)と生き方(八正道)を提示しているだけです。仏教徒は神について他宗教の方と論争してはならないと存じます。むしろ他宗教の方の立場を認めてあげましょう。
第二十四章 地獄極楽の方便
日本のお寺に行くと地獄極楽の絵図があります。地獄極楽がどこにあるか、本当にあるか誰も知りません。実は地獄極楽は仏陀に帰依してもらうための方便です。方便とは、つまり嘘です。しかし、この嘘は妄語でしょうか。地獄極楽の話でひとりでも多くの人が八正道に励むことができればそれは善です。ですから地獄極楽の話は信心深い人たちにとって妄語になりません。しかし、この微妙なさじ加減が実は難しいのです。
この現代において地獄極楽の話で八正道に励む人は少ないと存じます。我々は地獄極楽に代わるもっと良い方法を考える必要がありそうです。良い方法が見つかるまで今のところ、仏陀の教えの真髄を簡単に正直に説くことが良いと存じます。
第二十五章 中道
仏陀の物語に出てくる中道とは、厳しすぎる苦行やそれと反対の快楽のみを追求することを否定する考え方です。
具体的な問題と私の考え方を書いてみます。
Q. 仏教なら全員出家して僧にならなければいけませんか。
A. いいえ、人それぞれに進む道は違ってよいです。人々の幸福のためになる職業はたくさんあります。
Q. より多くの人のために、家族を捨てて社会のために働くことが必要ですか。
A. いいえ、身近な家族を第一にそして社会も大切にしてください。その比率は人それぞれです。その時その場で比率を変えてもかまいません。人それぞれに進む道は違ってよいですからね。たとえばあなたが独身であれば親の承諾を得て社会のためを中心に仕事をすることも良いでしょうし、あなたに家庭があれば家族や子供のことに多くの時間と力を割いてかまいません。ただし、家族や社会の人へ自分の立場を優しい言葉で正直に話して理解してもらうことが大切です。そうすれば「一人でも多くの人の幸福のためになることをすることが善」という教えに適います。
Q. 贅沢は禁止ですか。
A. いいえ、その時その場相手に合わせた服装や食事をすればよろしいです。例えば相手を喜ばせるために豪華な服装が必要な職業があります。あなたがあなたなりの贅沢を見せることで人々が幸福になればよろしいかと存じます。注意して欲しいことは、実力や金力に合わない浪費はいずれあなた自身を苦しめることになります。ですから今のあなたに相応しい贅沢の範囲があります。この範囲を守りましょう。
Q. ケチをしないといけないですか。
A. いいえ、極端な贅沢の反対である極端なケチは、相手を不快にします。いずれあなた自身の心も不快になります。あなたにお会いする人々を喜ばせる範囲で節約をお願いします。
Q. 努力努力努力と歯をくいしばりがんばっているが苦しくてたまりませんこれでいいのか不安です。
A. ちょっと休憩してみませんか。あなたがスポーツ理論に少し詳しいなら、練習でいたずらにバーベルを持ち上げても力が付かないことをご存知のはず、適度な休息がないと筋肉に力は付きません。物を作るときもいだすらに一人でがんばっても成果はたかがしれています。料理では時間がたたないと美味しくならないものがあるように時間でしか解決できないものもあります。物の性質をよく考えて作り方を変えたほうが良いかもしれません。考えをとりまとめているとき迷いや混乱が生じたら休憩が何よりも必要です。あなたの頭脳も生きており疲れて来るものです。物を買ってもらう商売の場合、買う側が実際に購入するまでにには段階があり時間がかかります。まず、知ってもらう、聞いてもらう、信用してもらう、試してもらうなどの段階ですね。たくさんの人に知られるにはそれなりの時間がかかることは致し方ありません。ちょっと休憩して一笑いしてみてください。あまりに辛い苦痛に苦しむあなたを見て周りの人があなたに声をかけられないこともあります。「分かち合う悲しみは半分になる」にしても大きすぎると相手に負担が大きすぎます。余分な苦しみを与えることならないよう苦しいがんばりを減らしてください。空いた時間で今のやり方より多くの人の幸福のためになる方法を考えましょう。
Q. 今のままでいいんです、仕事もありお金もあり家族もあり健康だし、ずっとこのままがいいんです。
A. あなたは変化を恐れていませんか。もしそうだとしたら今から少しだけ変化について学びましょう。変化とはいわゆる諸行無常のことですね。いずれ、あなたにも席を譲るときが来ます。余裕のある今こそ、一人でも多くの人の幸福のためになることを考えておくことも必要かと存じます。
Q. 目下の者に間違いを指摘され引っ込みがつかない、今まで育てた恩を忘れたような言い草に腹が立ちます。
A. 鏡をみてご自分の顔をよく観察してください。優しい目つきとおだやかな笑顔が現れていますか。よく顔の筋肉を動かして表情の練習をして見てください。あと深呼吸も忘れずに。しばらくしてから微笑みながら相手の表情を見てみましょう。どうですか相手は怒っていますか笑っていますか。間違いや失敗は誰にでもあります。またやり直しはいつでもできます。一人で苦行の世界へ突進してしまう必要はありません。一呼吸して状況を確かめ進路変更しましょう。
いかがでしょうか、私の場合は、中道を第一の目的としないで、「人それぞれに進む道は違ってよい」、「一人でも多くの人の幸福のためになることをすることが善」という教えの実現を目的として行動すれば結果として中道になるという考え方です。