Saturday, November 05, 2011

お金のかからない仏教

お金のかからない仏教

仏教は、二千四百年前に仏陀が説いた宗教です。ここでは、その教えをあらためて味いましょう。もちろん、お金もかかりませんし、入信も必要ありません。ただただその教えをお持ち帰りください。

第一部 仏陀の教えの真髄

仏教の長い歴史の中で仏陀である釈尊の教えは色々に解釈され変化しています。第一部では、できるだけ多くの仏教徒が認めていると思われる教えを取り上げ、そこに私の解釈を加えています。

第一章 はじめに

一、人それぞれに進む道は違ってよい
二、一人でも多くの人の幸福のためになることをすることが善
三、分かち合う喜びは二倍になり、分かち合う悲しみは半分になる

私の解釈

私の気に入っている仏陀の教えを三つここに揚げました。この教えでは難しいことは何も言っていません。読んでそのまま理解すればよいかと存じます。

第二章 信心と功徳

一、仏陀の教えを信じて八正道に励めば、欲を離れ、善を行うことができる。
二、欲を離れ、善を行うと、何事にも光、つまり、長所を認め、喜びを見出せる。

私の解釈

これは、仏陀の教えの何を信じて行えばいったいどうなるかについて、私なりにまとめたものです。仏陀の教えとして現在の日本に伝えられているものには、意味不明のお経と難しい熟語と「してはいけない」という禁止事項が多いです。でも本来の仏陀の教えも難解な理屈と禁止事項のかたまりだったのでしょうか。私はきっと単純な教えだったと想像しています。誤解を恐れず現代風の言葉で説明をして、さらに「してはいけない」だけでなく「こうするといいよ」という視点を私の解釈に盛り込みたいと存じます。

第三章 八正道

八正道は善行の基本です。それぞれに簡単に私の解釈を書きました。

一、正見 = 物事の原因と結果をを正しく知る
二、正思惟 = 喜び、楽しみ、感謝する
三、正語 = 優しい言葉で正直に話す
四、正業 = 人々の幸福のためになる職業に就く
五、正命 = 人に親切にし寄付をする =
六、正精進 = 高い目標を定めたゆまず努力する
七、正念 = 何事もはっきりと意識して行い、達成するまで忍耐する
八、正定 = 心の安定・精神統一・精神集中をする

私の解釈

仏陀の生まれた二千四百年前、当時の科学力、交通力、情報通信伝達力を空想しましょう。とても遅れていた時代です。当時、国家に明文化された法律があったのでしょうか、私の知る限りでは、はっきりしません。きっと今より迷信が蔓延っていたでしょうね。仏陀が私より偉大な人物であったことは当然ですが、一人の人間として生まれ、二十九歳で出家してわずか六年の修行で得られる科学の知識の量は、たかが知れているはずです。また仏陀にはまず迷信を正す必要があったはずです。その点を忘れずに教えを解釈をしたいと存じます。

正見では、「正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。」という説があります。しかし、「分かち合う喜びは二倍になり、分かち合う悲しみは半分になる」という教えや「喜無量心」と食い違いが出てきます。ですから「厭を生じ」とか「喜を離れ、貪を離る」を修行の目的としてはいけないと私は解釈しています。それだけを目的とすると、いずれ現実世界を見ないごまかしや無関心を生み出すことになりそうです。物事の原因と結果とは、仏教の用語で言えば、四諦、三法印を理解することです。これについては後で出てきます。

正思惟で「出離を思惟し無瞋を思惟し、無害を思惟すること」という深遠すぎて私には意味がよく判らないな説があります。これはおそらく後世の修行僧たちによる後付の理屈と私は推測しています。私の解釈では簡単に誰にでも判るように説明してあります。

正業と正語に十悪の禁止事項を書き記す解釈方法がありますが、私の解釈は逆で「こうするといいよ」を取り上げました。禁止事項だけを記しては、行うべき善が見えなくなるからです。つまり、八正道の目的は善を行うことですから。

正命に書いた親切にし寄付をすることを、仏教の用語では布施といいます。布施には、無財七施、財施、法施があります。無財七施が親切、財施が寄付、法施が仏教を盛り立てることです。法施はともかく無財七施、財施は宗教を超えて必要なことと存じます。

正精進に書いた高い目標ですが、仏教として最高の目標は、仏陀、つまり悟った人、になるということです。ということで仏陀の心である四無量心が仏教徒の最高の目標とります。

正思惟 、正念、 正定は心つまり感情の持ち方や考え方で頭の中のことです。私はこれら三つを難しく考えすぎないことが大切と感じますので、現代風に簡単に記入してみました。

このように八正道を平易に現代風に解釈することで、誰でも八正道を理解し実行に移せるようになります。これでこそ万人のための教えとなります。

第四章 無財七施

お金のかからない善行の無財七施について簡単に私の解釈です。

一、身施 = 無償の労働提供・ボランティア活動をする
二、心施 = 人々へ喜びと楽しみを与え、人々の苦しみを取り去る
三、眼施 = いつも優しい目つきをする
四、和顔施 = おだやかな笑顔を絶やさない
五、言施 = 暖かい思いやりの言葉をかける
六、牀座施 = 弱い人、尊敬するべき人に席をゆずる
七、房舎施 = 宿の無い人を我が家に泊めてあげる

私の解釈

人々へ喜びと楽しみを与えることを与楽、人々の苦しみを取り去ることを抜苦といいます。仏教は慈悲の宗教とも言われますが慈悲の慈は与楽、悲は抜苦です。

弱い人、尊敬するべき人に席をゆずることは、電車で体の弱い人に席をゆずったり、宴会で偉い人に上座に座ってもらうことだけではありません。権力を持った人が若者や部下に権限を委譲することや、親が子供に無用な口出しをしないことなどが含まれています。

お金のかからない善行ですから誰でもすぐにできるのですが、私はこれが実は一番難しいと感じています。その理由は、やり続ける必要があるからです。眼施、和顔施だけでもやり続けることはとても大変です。仏陀に近づくにはこの七つをやり続ける必要があります。

第五章 四無量心

八正道を達成した仏陀の良心を表す言葉が四無量心です。無量とは無限大の意味であり、四無量心とは無限の良心です。

一、慈無量心 = 人々に楽しみと喜びを与える
二、悲無量心 = 人々の苦しみに同情し、それを取り去る
三、喜無量心 = 人々の喜びをともに喜ぶ
四、捨無量心 = 欲を離れ、人々に惜しみなく施す

私の解釈

仏陀つまり悟った人はまず人々に楽しみと喜びを施してくれます。楽しみと喜びを得たあなたはまず最初にきっと笑います。笑うこと、楽しむこと喜ぶことは善です。仏陀は人々が苦しんでいれば、同情し、さらにそれを取り去ります。さらに仏陀自身が人々とともに喜ぶのです。つまり仏陀は喜ぶわけでそれも無限にです。ですから正見についての一説「正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。」の「喜を離れ」の部分は奇妙な解釈と私は存じます。欲とは執着心のことです。仏陀は欲を離れているので人々に惜しみなく施してくれます。

私も仏陀に見習い、欲をはなれ、ここではお金も取りませんし、入信も強制いたしません、その教えについてただただ解釈をしてみることにします。

第六章 三学

三つの学び修めること、戒・定・慧とは

一、戒=戒律、罪(殺生、邪淫、偸盗、妄語、飲酒)を犯さない
二、定=心の安定、精神統一、精神集中をする
三、慧=智慧つまり真理である四諦、三法印を知る

私の解釈

三学は八正道への入門編です。ですから三学は八正道の一部です。三学はお寺で修行を開始するときにまず習うことです。

仏陀の教えには飲酒の戒、つまり禁酒があります。今の日本国で禁酒を守ることが難しい人は多いと思います。私も酒宴があれば酒を口にします。せめて節度ある飲酒で心の安定を損なわないようにしたいものですね。

第七章 六波羅蜜多

三学をさらに発展させると倍の六波羅蜜多になります。

一、持戒波羅蜜 = 三学の戒
二、禅定波羅蜜 = 三学の定
三、智慧波羅蜜 = 三学の慧
四、布施波羅蜜 = 布施をする
五、忍辱波羅蜜 = じっと耐え忍ぶこと、怒らないこと
六、精進波羅蜜 = 仏陀に近づくよう努力すること

私の解釈

波羅蜜多は難しく聞き慣れない言葉ですが意味は修行して悟りに到達することです。三学の学ぶだけでなく実践の項目が追加されています。

六波羅蜜多でもまだ八正道の一部です。六波羅蜜多はお寺で修行を重ねるときにすることですね。

第八章 布施

善行の基本である布施の種類が三つあります。

一、無財施 = お金のかからない施し
二、財施 = 金銭・物質の施し
三、法施 = 仏法を説き広める施し

誠の布施とは、布施をした自分、布施したもの、布施した相手を忘れること。つまり、執着を離れること。

私の解釈

誠の布施とは、一切の見返りを求めないギブ・アンド・キブです。私はまだまだその境地に到達できそうもありませんが、いろいろ失敗して損をしたときは布施をした気分になろうかなと考えます。いずれにしろ誠の布施を最終目標として努力したいものです。

第九章 四諦

四つ(苦・集・滅・道) の真理つまり智慧について簡単に私の解釈です。

一、苦諦 = 人は苦しみを感じることがある
二、集諦 = 苦しみの原因は欲、つまり執着心である
三、滅諦 = 欲、つまり執着心を離れれば、苦しみが消滅する
四、道諦 = 苦しみの消滅の方法は八正道を行うこと

私の解釈

四諦の意味するところは特におかしなところも無く現代人もすんなりと納得できます。
そして、欲を離れるテクニックが八正道であり、それはつまり善行です。
しかし、仏教では四諦を真理である言い切っていますので、他の宗教から攻撃される可能性があります。

第十章 四苦八苦

苦の分類です、まず、四苦とは、生、老、病、死。
さらに、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦を加えて八苦となります。

五、愛別離苦 = 愛するものとの別離
六、怨憎会苦 = 怨み・憎しみを感じること
七、求不得苦 = 求めるものを得られないこと
八、五蘊盛苦 = 生身の体であること

私の解釈

四苦は客観的に眼に見える苦しみ、生まれることが苦しみの始まりであるとしています。
八苦として追加された苦は心の中にあり他人から見えない苦しみです。五蘊については後で説明があります。

第十一章 煩悩の三惑

煩悩、つまり欲、執着心を三惑 の 貪・瞋・痴に分類

一、貪欲 = 貪りの心
二、瞋恚 = 怒りの心
三、愚痴 = 愚かな心

真の悪魔とは 人間の心の悪の面つまり煩悩のことである。
自らが愚かであることを知っていることほど賢いことは無い。

私の解釈

自分が何か悩んでいたり気分が優れないときは煩悩に取り付かれているのでしょうね。逆に悩んでいたり気分が優れないとき、あっ煩悩だと気がつくぐらいだと修行の成果も出てきたのでしょうね。

第十二章 五蘊

五蘊 とは、肉体と精神の構造を分類したものです。

一、色 = 眼に見える肉体
二、受 = 感覚を受け入れる五器官(眼耳鼻舌膚)
三、想 = 記憶
四、行 = 意志
五、識 = 感情・意識

私の解釈

五蘊、次の六根、六境、六識は、仏陀の時代の科学知識を考えるとこれで十分だと思います。そして現代の私たち自身にとってもこの分類で十分修行に励むことができます。

第十三章 六根

六根とは、感覚器官を分類したもの

一、眼根
二、耳根
三、鼻根
四、舌根
五、身根 = 皮膚や内臓のこと
六、意根 = 神経、心へ感覚を伝えるところ

第十四章 六境

六境とは、感覚器官が捉える対象の分類

一、色境 = 色彩、形状
二、声境 = 音声
三、香境 = 香り
四、味境 = 味
五、触境 = 手触り・温度、体内の動き痛み
六、法境 = 色境 から触境 を統合して心が感覚として感じるものすべて

第十五章 六識

六識 とは、感覚器官に対応した心の認識作用
眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識

第十六章 三法印

三法印とは、この世の成り立ちと生きる目的です。

一、諸行無常 = すべてのものは変転する、生まれやがて滅び死ぬ
二、諸法無我 = 我つまり自分と呼べる固定した実体はない
三、涅槃寂静 = 生きる目的は、欲を離れ、善を行う悟りの状態を目指すこと

私の解釈

諸行無常は、この現実世界をありのまま捉えたもので誰にでも理解でき異論はほとんどありません。
諸法無我は、宗教により立場が異なるので異論が噴出します。また現代の科学でも我について解明は遅れています。

これから私の解釈を述べるのですが、諸法無我については、仏陀の時代背景の理解がまず必要です。

仏陀の生きた頃には、我という変化しない主体、いわゆる不滅の霊魂でしょうか、を想定する有我論がありました。諸法無我は有我論の否定です。こう言うとどんどん難しくなっていきます。仏陀の真意はおそらく水掛け論になってしまう議論を止めることだったと想像します。

では諸法無我の私の解釈ですが、我とは自分であり、自分では肉体が外にあり心・精神が肉体の中にあります。諸法無我とは、我がまったく無いと解釈することではなく、「我と外の境界があいまいである」と私は解釈しています。ですから我・私という肉体は今ここにありますがその境界はけっこうあいまいです。昨日食べた食事が今の自分の一部になっていますからね。また我という心・精神ももちろんありますが、これは肉体の脳の状態であり、心には形がありません。つまり心は物質ではないので固定した実体ではありません。心は脳の状態でしょう。
例えば怪我をすると心は痛みを感じますが、眼で傷を見るとさらに痛みを増すことがあります。いたずらに痛みを恐れると痛みが増すのです。実際はそんなには痛くないのです。そしてどんな傷もやがて痛まなくなります。痛みを感じているのは傷口なのか脳という物質なのか心なのか、、、。痛みそのものは物質ではないので実体ではありません。傷と痛みの関係を冷静に見ることで肉体の自分と精神の自分の差を認識できます。これらが諸法無我の私の解釈です。

涅槃寂静とは、まったく何もしないということではありません、ただひたすら善を行う状態・四無量心と私は解釈しています。

心は、正しい知識・四諦を知り八正道を実践して良い方へ変えることができます。

第十七章 十悪

十悪とは、してはいけないことです。行為、言葉、心の区別も入れてあります。

一、殺生(悪行為)
二、邪淫(悪行為)
三、偸盗(悪行為)
四、嘘(妄語)
五、無駄口(妄語)
六、悪口(妄語)
七、二枚舌(妄語)
八、貪る(悪心)
九、怒る(悪心)
十、邪見(悪心)

私の解釈

十悪は八正道の裏です。ですから禁止事項となります。

殺生についてですが、これは程度問題です。人が人を殺すことは害が大きすぎるため禁止です。現代の法律も当然殺人は最も大きな罪として禁じています。戦争や死刑については、できる限り避けるように法律や社会を改良していくしかありません。では、動物や植物を殺したり食することはどうでしょうか、この場合、字句どおり厳格に解釈するのではなく「一人でも多くの人の幸福のためになる」かどうかで判断することにしましょう。

邪淫について、一切の性行為を禁止しているものではないと私は解釈しています。邪淫とは、つまりは悪、他の人を苦しめる悪の性行為を禁止していると解釈してください。

偸盗は、泥棒のことです。

貪るは、際限なく飽きることなく欲しがることです。煩悩・欲に取り付かれた状態です。金品・権力・名誉・快楽を求めることは、ほどほどにしなければいけません。

怒るに、私は意地悪、苛めも入れています。

邪見とは、原因と結果を正しく見ない間違った考え方という意味です、たとえば仏陀の時代ならなんでも悪霊のせいにする迷信です。そして今でも犯罪者によく見られる罪を罰せられても運が悪かったとすることもあります。また、何事にも後ろ向きになる考え方、悪へ吸い込まれていく暗い気持ちも邪見です。

第十八章 三帰依

三帰依とは、仏教徒が三宝(仏・法・僧)に帰依することです。

一、仏 = 仏陀つまり悟りに到達した者
二、法 = 仏陀の教え
三、僧 = 僧伽(修行に励む僧侶と在家の仏教徒)

仏陀は釈尊だけとしないのが大乗仏教
南無とは帰依するの意味

私の解釈

帰依は信仰するという意味です。僧は出家した僧だけでなく在家の模範的仏教徒も含まれるとして良いはずです。

仏陀を釈尊だけとしないことも良い意味に捉えることが大切です。悪い方向に捉えると仏教内部の宗派争いになります。

八正道について宗教臭さつまり個人崇拝や排他主義はありませんが、三帰依あたりから宗教臭さが少し顔を出しています。 僧に帰依していただき布施をいただかないと仏教教団の生活が成り立ちませんのでいたし方ないことなのでしょう。

第二部 私の解釈

ここ第二部からは、仏陀の教えについての私の独自の解釈です。

第十九章 定を求めて

定、心の安定、精神統一、精神集中状態について現代風に考察します。それは、

一、心が清い(悪を考えず善を考える)
二、心が柔らか(変化に対応できる)
三、常に耐え忍ぶことができる

でしょうか。では、心の安定を得る具体策は、

○、人々を楽しませ励ますこと
○、人々の喜びを共に喜ぶこと
○、人々の恩と親切に感謝すること
○、すべての人にわけ隔てなく好意で接すること
○、進んで善を成し善を楽しむこと
○、言葉と行いを一致させること
○、愚痴を言わないで、自らを励ますこと
○、貪らず、節度を守ること
○、人々を悩まさず、席を譲ること
○、敬うべき人を敬うこと
○、仕えるべき人に仕えること
○、人々に深い慈悲の心で接すること
○、争いを好まず、協調を好むこと
○、正邪を論争せず、相手の立場を理解し認めること
○、他人の悪い言葉に迷わず、平静を保つこと
○、謗られても、恐れず、怯まないこと
○、他人の成功に嫉妬せず、褒め称えること
○、他人の悪行を激しく追求せず、むしろ長所を見出すこと
○、自分の行いと考えを省みて欠点を直し長所をさらに伸ばすこと
○、良い人が見つかるまで教えを友とし孤独を恐れないこと
○、死を恐れないこと

などか思いつきます。

第二十章 煩悩から逃れる

煩悩から逃れる術を現代風に考察します。

一、正しい見方をする

原因と結果をわきまえ(諸行無常)、煩悩は我という心の中にしかないと知り、我と呼べる固定した実体はない(諸法無我)、つまり、煩悩に固定した実体はないと知る。

二、欲を抑え鎮める

何を感じるときも常に六根を清浄に保ち、何事も善に解釈し、いたずらに快楽を貪らない。

三、物を用いるに享楽だけを追求しない

着物は暑さ寒さを防ぎ羞恥を包み、さらに周りを楽しませるもの、食物は道を修め体を養うために取り、さらに周りを楽しませるもの、いずれも己の自慢や見栄のだけためではない。

四、忍耐をする

暑さ、寒さ、飢え、渇きを耐え忍ぶ。
ののしりや、謗りや無視に耐え忍ぶ。

五、危険を避ける

行ってはいけない所に近づかない。
会ってはいけない人に会わない。

第二十一章 怒らない

怒らないためにすることを現代風に考察します。

一、まず対象から一歩離れる
二、対象について、多角的に捉えなおす
三、対象の大きさ加減を知る
四、対象への怒りがつまらぬことと見切る

第二十二章 仏教の愛とキリスト教の愛

仏教とキリスト教では成立した年代・地域・文化が異なるため、仏教の愛とキリスト教の愛では、言葉の意味の範囲に大きく違いがあります。仏教は愛という言葉をもっぱら欲にからんだ狭い意味で使用しています。キリスト教は愛という言葉を博愛の意味で利用しています。キリスト教の愛は仏教の四無量心に対応すると考えてもよいかも知れません。どちらの宗教も人々をより良き方向に導くことを目的としております。教えの正邪を論争しても意味がありません。

第二十三章 神と仏教

仏教には神が出てきません。神について何も述べていないのです。ですから神を肯定も否定もしていません。神とはどのようなものであるかも説明していません。むしろ神を信仰する人にその信仰を捨てる必要は無いと言っていたりもします。私はこの点の出典を失念していますが。

仏陀はこの世の成り立ち(三法印・四諦)と生きる目標(四無量心)と生き方(八正道)を提示しているだけです。仏教徒は神について他宗教の方と論争してはならないと存じます。むしろ他宗教の方の立場を認めてあげましょう。

第二十四章 地獄極楽の方便

日本のお寺に行くと地獄極楽の絵図があります。地獄極楽がどこにあるか、本当にあるか実は誰も知りません。実は地獄極楽は仏陀に帰依してもらうための方便です。つまるところ嘘です。しかし、この嘘は妄語でしょうか。地獄極楽の話でひとりでも多くの人が八正道に励むことができればそれは善です。ですから地獄極楽の話はこの信心深い人たちにとって妄語になりません。この微妙なさじ加減が実は難しいのです。

この現代において地獄極楽の話で八正道に励む人は少ないかと存じます。我々は地獄極楽に代わるもっと良い方法を考える必要がありそうです。私は仏陀の教えの真髄を簡単に正直に説くことが現代には良いかと存じます。

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